備中 岡田藩史

一万三四三石





 岡田藩とは 現在の岡山県吉備郡真備町岡田(現在は岡田小学校)に御屋敷があった。藩主は伊東氏、本姓は藤原氏、代々伊豆伊東に居たので、伊東を氏とした、領地は真備町の旧矢田村(岡山領)を除く全てと 玉島の旧陶・服部村、総社市の旧新本・水内村で十ヶ村と美濃国・河内国・摂津国に五ヶ村あった、石高一万三四三石の小さな藩であった。藩祖伊東丹後守長実が、入国した当時は服部村谷本へ八ヶ年、上二万村へ一時移り、川辺村土居屋敷に四十年間居た、その後岡田村中村へ移った、入国から十代二五五年間の内 七代二百年間 明治維新まで岡田に居た。

藩主入国

 備中国御領地への入国は、元和二年三月二十三日の明け方に、浅口郡亀山村(今の倉敷市玉島富田)湊へ着船した。服部村の与左衛門が二十人ばかり召し連れてお迎えに参上したが乗馬一匹もなく御乗物もない。また御供の歩卒や人足等は、御陣具や御手廻り雑具を持って余裕はない様子で、与左衛門が背に負い奉って谷本陣屋に到着。亀山から谷本迄道程凡そ五〇町で、途中陶村の峠と荒木の大岩の上との二か所で休息した。今にその大岩を君ヶ岩申し伝えている。時に与左衛門二十歳という。



藩主の生活

 殿様のお屋敷普請
 元禄十三年 (一七〇〇) 三月六日「岡田新家敷御普請に掛り面々、岡谷新蔵、中山嘉平治、池田政右衛門、土師加兵衛、其以下迄被’下物有’之。
 翌七日、岡田新屋敷御普請御入用目録、岡谷新蔵差上ル。この時、主だったものは「いろりの間」にて、麻上下姿で御挨拶。

 御祝として雑煮、二汁七菜。
御相伴、年寄役の仙石平左衛門、尾関長左衛門、守沢可入、及び医者四人。
 元禄十四年(1701)
奉行は末吉以左衛門、尾関助太夫、上下にて赤縁秋右衛門、小野宗助、中山忠助、小野休山、稲村円長、片岡雲佐、御新宅へ御年寄中出座。
 熨斗出る。立川庄兵衛、池田弥市、末吉以左衛門出る。
その後会所にて御吸物、御酒、赤飯下され、足軽、小人、小頭ら御酒、赤飯下さる。
 この時の有様次の如し。
  御槍 二本   御長刀一本
  御駕籠脇    のし目麻上下
  御歩行         麻上下
御着座の給人、中小姓、御いろりの間にて御礼。姿は麻上下。
   但、歩行抜きならびに国歩行は御広間に於て御礼。麻上下。
御祝、御雑煮、御料理 二汁七菜
  御相伴、御年寄中仙石平左衛門、尾関長左衛門、守沢可入、並びに御医者四人。


藩政

一、藩士
 藩士は大抵家禄を世襲し、平時は常に武事を練り、また藩主の命を受けて、中央域は地方に在って藩政を、一朝有事の際は武器を取って戦場に立つ事を制とする。 藩士中、仙石・木崎・榊原・森島・川瀬等の諸氏は藩祖丹後守長実に従属して、戦場を駆けめぐり主君の軍功を助けた譜代の臣属で、代々岡田藩の重職を帯びていた。

二、職 掌
一、御側御用人  常に藩主に、御年寄の上甲其他重要事項を親しく上聞し、可否を献替する。
二、御納戸役(なんどやく)    御手許の金銀衣服調度の出納及び藩士への賜与褒賞を将軍  其の他へ献進贈呈物の取扱、邸内の小道具の調達を掌る。また君公結髪月代をも受け持つ。
三、御近習(きんじゅ)    常に君側に侍し、殿内へ交番宿直して御用御取次をし、また主君へ膳部の献進其の他の雑務を掌る。
四、御殿医(ごてんい)    常に出任して、君公の健康に注意する。
五、御坊主    常に殿中に出て、掃除または小使を勤める。
六、御台所役    炊事に関する出納を掌る。賄い方、御膳立などの下役がある。
 * 以上は江戸の藩邸にも置いていた。
七、御作事奉行   邸内営繕に関する諸般の事を掌る。御作事目付の下役がある。
八、御春屋奉行   一般藩士に米塩を渡す所。

三、領治法
 伊東氏の封地である下道郡は、天正、文禄、慶長の頃は、一八年間毛利氏の治下にあった。
慶長五年の関ヶ原の戦いに依って毛利氏が、防長二国に削減せられてから、備中の地は小藩分立して遂に大小三十有余に分かれ、他に寺社領二八となった。
 しかして旧下道郡は一時松山城代官小堀正次の支配下で、徳川氏の幕領となっていた。
次いで岡田、岡山、松山の三藩及び井山宝福寺領に分知せられるようになった。
 当時民間は戦国中の創夷がなかなかなおらなくて、加えて領が度々交迭して、政令もまた朝令暮改の有様であったので、人民の難苦は察するに余りあるものがあった。

江戸時代の人物

 浦池九淵 
 浦池九淵は伊東公実録中にしばしば主君より感謝されている。 浦池は岡田に過ぎたる者三つの中の一つで、特に幕末藩財政の不如意、借金のかさなる時にあたり、江戸と岡田とを度々往来して心を砕いていた。
 
 古川古松軒
 古松軒、名は正辰または辰、または平治兵衛、字は子曜、総社市新本の生まれであるが、後に岡田に住んだ時、庭に古松あり故に古松軒と号し、また有井に住んだ時そこに竹あり、竹亭と号した。
 享穂十一年(1726)八月生まれ、八歳にして母に死別し、資性らい落、大志あり、若い頃より 諸国を周遊し、宝暦九年(1759)には長崎に至り蘭人に医を学び、家は薬屋であったので、医術も施した。学を承くる所はないが、測量に長じ、史蹟を研究、全国を周遊し、著書も極めて多く、文も画、歌にも長じた。彼は若かりし時悪友に誘われ、博打を好み後に悔やんでこれを治したという。 彼は薗の有井の宅地を「竹亭」と称してここに住む。現在新本の宅源寺には彼の墓もあり、彼の遺物を多く存している。その中にこの竹亭の絵がある。 彼は晩年に多くの著述をなした。


一、広く世に知られているもの
 備中州礼記、 吉備の下道、 西遊雑記、名所の家づと、古川反古、東遊雑記、 帰郷信濃噺、
 都の塵、   名所めぐり、 四神地名銘、八丈島筆記、地勢論及軍勢人数論、 備中全州地図、 武蔵五郡地図、 東亜地図、 備中古城記、 秘事要録、 奥羽及松前紀行、 西国海浜紀行、 古松軒雑記、 古川見聞記、 高松水攻図、奥羽名勝誌、竹亭関原誌、探勝雑記、懐中地理誌、 東都以東一五勝図、  讃州牟礼高松八栗屋島大略図、  久留米城図、  築紫之土産。 二、古川氏末裔所蔵のもの
 遠州美方原御陣図、摂州千破矢城の図、関ヶ原御陣図、

裁判制度

新本騒動
 享保二年(1717)より翌年にかけて、岡田領の下道郡新庄、本庄両村の百姓が入会山返還の要求をして逃散、越訴で成功したが、新総代四人は死刑、五人追放となった事件。
 新庄、本庄の二村(現在は総社市新本)にまたがる広大な入会山を留山にして植林し、家臣たちの薪や炭を作っていた。(当時は領主は家臣に米を給料として渡すと共に燃料の割木なども渡してやっていた。これも藩主の重要な仕事であった)
 藩の財政はこの頃極めて苦しく、留山とした上に、この二村に述べ四千人の人夫を課し低賃金しか払わなかった。このため享保二年一月、この両村の農民208人は、5人を除いて、入会山を留山にしないこと、及び山人夫の廃止を訴えて立ち上がった。農民たちは連判状に血判をして、本庄村の岩の下に埋めて団結を誓い合った。
 この年の十二月に農民総代の六蔵ら四人が江戸に行き岡田藩の江戸屋敷に上訴した。
 この四人の姓名は松森六蔵、甚右衛門、川村仁右衛門、森脇喜惣次。これを義民四人衆という。
罪人としてとらえられ、五月二五日岡田に到着。
 享保三年六月七日、新本村、飯田川原にて斬罪となる。


江戸時代の交通江戸時代の宗教

 江戸幕府はキリスト教を厳禁し、島原の乱などによりその後はこの取り締まりを徹底する一つとして寺院の檀家制度を考えた。毎年の如く宗門改めを実施し、またひそかにキリスト教を信ずる者を密告させた。
 しかし神社や寺院の新築を禁じたけれども神社は雨乞いのためや、藩主の守護神の如き神社は新築されている。寺院は桜のお大師様のみ創建。
 宗旨手形、氏子札などこれら一連のものである。また岡山県は真言宗の勢力のある所で、その為四国八十八ヶ所に模して備中州八十八ヶ所、下道八十八ヶ所などができている。
 また旅行をするには寺院から出した証明書を持参している。これらは明治の初年まで続いている。巡礼八十八ヶ所 備中にも下道にも八十八ヶ所を制定してある。元来四国は文化の開発が早くからあって、空海の誕生地でもあり、仏教の流布も他より先だち、霊場の数も少なくなかったので、平安時代から辺土と称して順拝する風習があった。
 その後、元禄の少し前、延宝年間(1670年頃)僧真念という者が弘法大師の霊場を踏査すること十余回、大いに巡拝の功徳を説き、元禄元年(1688)に一書を刊行して勧めた結果、急に八十八ヶ所の名があらわれ四国遍路の名があらわれるに至った。
 このことは諸国に伝わり、これを模倣して八十八ヶ所が諸所に出来て、それを小冊子にして人にわかち勧めたのがここの下道八十八ヶ所などである。


江戸時代雑件

 岡田藩には摂津、河内、美濃に少しずつ飛地領があったので、藩の実録にもこちらよりこれらの地へ治政上で行ったり仕事のために行った話もある。美濃国池田郡之内、伊東氏の代官

 時の鐘
 「時の鐘」は藩邸の鎮守として元禄一五年(1720)に勧請した稲荷神社の鐘。この鐘は価銀二貫百三十文。この宮は旧藩邸の囲のうちにあり、伊東家歴代の鎮守であるが今はさびれている。
 元禄十五年(1702)藩主長救が山の谷にあった中村屋敷より岡田山に移した時にここに祭り、爾来尊敬した。 この神社に歴代の藩主が梵鐘、鳥居、石灯籠などを寄付し、領民の参詣を許していた。 江戸藩邸撤去の時、中下両屋敷にあった鎮守の宮を合祀し、明治維新後、廃藩の際に藩主は東京に移住、多数の士族も流離、そのため社殿もすたれている。


 娯楽
 享保十一年(1726)十月七日、御領内の相撲取を集め、藩主御玄関前において御見物遊ばれ候御家中の面々勝手次第見物仰せ付けられる。 岡田藩主は倹約令をたびたび出し、質素の奨励を強くしていたので、歌舞伎や浄瑠璃その他の娯楽及び色街などは全くなかったものと思われる。 享保十四年(1729)川辺に象来る。 四月十二日、日本に初めて象が来た。江戸まで行くので各地方の町史にもこれを取り上げている途中川辺に一泊。現在と違って全部歩かせて連れていく。川辺には泊まるので、岡田の殿様や令息内記録や源福寺に来られて藪の中から御覧なされた。 山陽道の川辺はいろいろなものが通過した。上の象の通った年の八月二八日にはオランダ人が 川辺を通行したので足軽二人を遣わし先払いをさせた。有名なドイツ人のシーボルトは長崎から江戸まで行っているが、この話は彼ではない。


 真備町ふるさと歴史館(真備町岡田)


開館日   毎週日曜日と水曜日
 開館時間 午前10時〜午後4時
 入館料   大人100円 小人(小・中・高校生)50円 65歳以上は無料
 交通 公共機関 :JR伯備線清音駅より、JRバス矢掛行き「川辺中町」又は、「有井」下車、徒歩15分
        マイカー :高梁川の川辺橋を渡り、西へ500bほど行き岡田方面へ右折5分ぐらい




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