備中 松山藩史

現 (岡山県高梁市)


備中代官 小堀氏二代

 小堀新介正次が、備中代官に任命されたのは、関ヶ原の戦から三ヶ月後の慶長五年もおしずまった十二月十八日であった。
 正次が松山に就任した当時は、城下町の面影は次第に薄れ商業都市へ変わりつつあり、政庁の御根小屋は天正の戦火で焼失したままであったため、頼久寺を、仮の陣屋とした。
 小堀検知の中で倉敷村の記録がある。前年までは宇喜多領であった。文禄の役には加子浦と呼ばれるここの水夫が軍船に乗り込み、その基地として屋敷や長屋・蔵屋敷などが建ち並び、次第に港町を形成して来つつあった。高梁川の河口に近く、備中北部の特産物の煙草や鉄を高瀬舟で下し、
南部の穀倉地帯の米を収荷して上方へ回漕するのに、最もよい条件を備えているとある。
 この港町の取り立ては、大量の米や鉄を大坂に急送するのに大きな功績を挙げ、将軍家光から一層信頼される基にもなった。
 この他寺院の除地の取り扱いはかなり厳しかったらしく、寺領を没収されたり石高を減じられるなど、厳しい態度で臨んでいる。

 かくして小堀正次・正一の二代の代官時代は終わった。家康の期待に応え治績を残し、秀忠の隠居を機会に、新将軍家光の膝下に迎えられた遠州は、中央で才能を発揮する事になったのである。



大名池田氏の入国

 元和三年の二月十日に因州鳥取から池田備中守長幸が六万五千石で備中松山へ入国した。
まづ初めに取りかかった事は、城下町の形成であった。小堀氏時代は、百人程の家臣が、池田氏時代になってからは千人近く増えたのである。御根小屋下の本丁・川端丁を家老・家老格・年寄役・およびこれに次ぐ重臣の屋敷地にあてた、城下では最も重要な地域であった。
 東の山麓一帯の御前丁・石火矢丁・片原丁・頼久寺丁・中之丁あたりは、上級武士の住居区域で寺町・向丁・柿木丁に士分の者を住まわせ、足軽は鉄砲丁に足軽以下は中間町に居住させた。
これまでその辺りに居住した町屋は、本町・下町・新町・鍛冶町などに移し城下町は形成された。 池田氏は僅か二五年で嗣子がなかったため断絶し、城下町取り立てもここで終わった。
 断絶した池田氏は、後に井原一千石の旗本として家名を再興した。


水谷氏の入国

 池田氏の断絶のあとを受け、水谷勝隆が五万石で入封した。子の勝宗の時に、松山城下町は、五〜六万石の大名の城下町としてほぼ完成し、現在に至っている。
水谷勝隆は、土木工事に堪能な多くの家臣を持っていたし、人の材を見抜き、その才を延ばす眼識もあったので、その子勝宗と共に、僅か六年そこそこで松山以北新見まで九里の河道を川開きして
舟行の便を計ったし、高梁川下流の三角州の発達や島々の配置から、島々を結んで堤防を築き、海を埋め立てた干拓による新田開発を考え、大森元直を新田普請奉行に起用して、今の玉島長尾、船穂新田、玉島・上成・爪崎の新田を開発した。


安藤氏の入国

 水谷氏の改易後、元禄八年安藤対馬守重博が上州高崎から五千石の加増を承け、六万五千石の藩主として松山藩に入封してから、元禄十一年八月五九歳で死亡、その子長門守信友が後を継ぎ、正徳元年美濃国加納に転封するまで、この間一七年間が安藤氏の時代である。


石川氏の入国

 美濃国加納に転じた安藤氏に代わって、山城国淀から石川石之助が所替えを命ぜられた。
正徳元年から延享元年板倉勝澄と交代して伊勢亀山に転封されるまで、三四年間松山藩主の地位にあったが、その長い間さしたる治績の伝えられないのは、その初期年少であったこともさるながら、元禄検地以後の藩内事情から、大した仕事も出来なかったのであろう。
 石川氏は三河以来の譜代の名門であり、石川石之助総慶の妻は老中久世大和守重之の娘であったから、何とかその日暮らしで三四年の長きにわたる治世を過ごし、延享元年三月一日板倉氏と入れ代って伊勢亀山に所替えになったとき、旧領のうち上房郡の有漢村・上有漢村・竹荘村・阿賀郡の中津井村・水田村などのうちで一万石が、そのまま亀山領として残されることになったのであろう。
 (陣屋を中津井に置き明治に及んだ)


板倉氏の入国



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