庄氏



備中を制覇した武将 庄氏

庄氏を、ご存じでしたか?
岡山県に住む貴方さえ、おそらく初めて聞く武将の名前ではないでしょうか!

かって戦国時代に、草壁の庄(矢掛町の東部)の土豪から備中国を制覇した武将なんです。



庄氏系図

藤原鎌足 ・・・ 23代家長 -- 頼家 -- 頼房 -- 頼澄 -- 房時 -- 頼資 -- 資房

資氏 -- 資政 -- 資昭 -- 氏貞 -- 氏敬 -- 元資 -- 為資 -- 高資 -- 勝資

資直 -- 直清 -- 直明 -- 直法 -- 直勝 -- 44代時直 ・・・以下略


 上野氏兄弟を討ち取って、松山城主となった庄氏は、もともと 大職冠藤原鎌足の子孫と言われる。
早くから武蔵の国に住し、武蔵七党の旗頭の一人として重きをなし、庄権守藤原広高は鎌倉幕府の御家人となり、その子本庄太郎家長の時、平家追討に際して武功をあげた。
 平氏没落に際して備中一国が欠国となったので、守護代として関東から移ったものであるが、入国した家長は城を猿掛に築き、横谷の御土井に居館を構えて、次第にその勢力を蓄えて行った。
 庄氏は鎌倉以来猿掛の城主で、備中草壁郷、今の小田郡矢掛町三谷や山田など備中南部を中心とした土豪であり、室町時代には守護細川氏の守護代として、大きな勢力を持っていたが、応仁の大乱後はますますその勢力を伸ばし、細川氏の領国支配権はしだいに衰えてきた。
 京都相国寺領の川辺荘で、文明十八年(1487)守護の被管石川左京進が、代官職を望み強引に川辺荘へ入部、合戦に及ばんとし、更に延徳二年(1491)石川左京進がむりやり相国寺領三百貫の川辺荘へ入部してきたので、相国寺では彼に五〇貫の年貢を納めさせる約束で管理させた。
ところが去る六月争いが起こり、左京進が討ち死にした。
 備中南部は、川辺荘の事件から次第に騒がしくなり、ついに延徳三年(1492)庄元資は、守護細川勝久に対して反乱をひき起こしたのである。




庄氏居館跡
小田郡矢掛町横谷


■ 23代 庄家長
 初代猿掛城主、源氏の武将であり、武蔵七党のうち児玉党の旗頭であった。源平合戦の一ノ谷で平家の大将が破れて
須磨の浦を落ち行くのを追いかけ生け捕り、その功により源頼朝より陸奥の室の地の庄を貰う。

■ 29代 資房
 庄家長(猿掛初代城主)の七世の孫。この七世には異論もある。
 この資房は都窪郡山手村の幸山城主、左衛門四郎と称す。家が衰えて守護人に補せられ、元弘の乱には北条仲時に随って戦い、
安藤元理らと共に元弘三年(1334)近江の番屋で討ち死にした。

 賊軍方であったが、この子七郎は官軍方となり、船上山に後醍醐天皇を迎え、また後には足利氏に仕えた。

■ 30代 資氏
 後醍醐天皇船上山へ臨幸の時、宣旨を奉じて御迎えに参上、従って上洛する。

■ 31代 資政
 文和二年南朝に奉仕し、北畠親房に従い、足利尊氏、高の師直としばしば合戦、軍功あり感状を賜う。

■ 32代 資昭
 永和三年(1377)朝鮮国使来るとき、足利義満将軍の執事細川大夫より命を被り馳走役を承わる。
また応永二十二年(1417)上杉氏憲が乱を起こした時、畠山満家に従って戦い、軍功あり。

■ 35代 元資 庄駿河守という。
 享禄四年(1531)管領細川高国、細川晴元と開戦する。時に晴元に加勢し、士卒を励まししばしば戦った。
この元資まで数代は比較的平穏で大した合戦の争奪もなかった。次の36代は庄氏の全盛時代!

■ 36代 為資
 猿掛城主であったが、天文二年(1533)に当時、松山(高梁)を領していた上野伊豆守を植木長秀の協力により攻め滅ぼし松山城主となり、
これより備中守と称し備中半国を領有して一万貫を得たという。

 その時の有様を中国太平記に
 「当国大松山の城には上野伊豆守、小松山の城には上野右衛門慰居りけり。去んぬる天文二年猿掛の城主庄為資押寄せて相戦ふ。
  植木総守秀長、庄を助け大松山を破る。
 小松山も植木の一族、若林次郎右衛門に討たれて滅ぶ。
 これより為資、両松山を持ち、庄備中守と号し、備中半国一万貫の主となる。
 猿掛のあとには穂井田実近へ移り住む。成羽の三村、高山の石川、竹庄の工藤、新見の楢崎らは庄の縁者なりといふ」
とある。為資は天文の末死す。

■ 37代 高資
 


 庄氏第三十六代為資は備中松山(高梁)を陥れて庄備中守となり松山城に君臨し、備中の至る所に一族を配置し、
庄氏全盛時代を誇った。

 この猿掛城は小田郡矢掛町と吉備郡真備町との境にあり、菩提寺は矢掛町横谷の洞松寺である
二〇メートル上がったところに古書に残る観音寺跡あり、急坂を登ること三十分、「太夫丸」跡につく、
これは当時砦の一つであった。
 更に登ること十五分、小丸跡に到着。二段になり、一段は馬場、二段は小丸といわれる。
今から五、六〇〇年前の築城。戦国の世に戦い読けて、約二〇〇年間存続し、三五〇年前に廃城となった。猿掛城跡は、標高二三三メートルある。

 かつてここに三五〇〇人の将兵を収容していた。天正十年(1582)毛利に攻められて惨敗となりその後関ヶ原の戦の後廃城となる。



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