高瀬舟





1.はじまり
高瀬とは浅瀬である。それで海には関係のない舟である。
初めは急流の山川を乗り切るものだったのに室町時代より主に貨物を運び、浅瀬を運航するため底を平たく浅くしたものである。天文二十一年ごろ(1552)高梁川に初めて高瀬舟が通ったとある この頃この舟はいくさ用としての働きをなした。慶長九年(1604)角倉了以が吉井川の高瀬舟を見て京都その他の地にこれを流行させたという。
 高梁川にもその頃あったので都の方より先がけていたことになる。





2.構造
この舟は客船でありまた貨物船である。高梁川では駄馬二十頭分積んでしかも早かった。その上安上がり。
構造はそりが船首で約二〇センチ高く、船尾で一二センチ高くなっている。
先端の高さ約1.8メートル、先端の幅0.3メートル、後尾の幅約14センチ。
 道具は、舵、櫓、櫂、帆、綱、瀬持棒などあり、約7メートルの帆柱を立てて帆を時々変化してあげ、上りの時は場所によって舟を押し上げ、肩を入れてかつぎ上げた。
舟体の長さ約15メートル、幅2メートル、これが威勢よく高梁川に就航していた。


3.高梁川の高瀬舟
高梁川の高瀬舟は約400年間にわたってこの地方の産業、交通の動脈となり、酒を用意してしかも舟中での鮮魚料理、瀬戸内海の多島美を眺めての舟旅は格別であった。明治・大正時代は潮干狩り、修学旅行の人などを乗せた舟。伯備線全通と共に姿を消した。
 高梁川をこの舟が下った最後は昭和25年、総社市福谷の有志が10数名、これで金比羅参りをした時であるという。


4.乗組員
 この舟の乗組員は3人ー4人。「先乗り」は舳先で櫂を操り、「跡乗り」は船尾で流れのゆるやかな所では櫓で船を進め、急流ではかじをとり、「中乗り」は中央に居て帆の操作及び雑用をする。



5.川辺と高瀬舟
  高梁川にこの舟が繁昌したのは備中松山藩主水谷勝隆が水運に力を入れて新見まで運航させたことによるという。
 特に江戸時代に吹屋の銅やべンガラは成羽を経て、この舟で降る。途中高梁の南の下倉という川港により、次の港は川辺であった。
 玉島は内地貿易で繁昌し、関東関西各地に積出した。特に明治になって舟は急増し、300隻を越え、舟問屋も所々に栄え、川辺の港は宿場としても港としても両面に栄えていた。





6.高瀬通し
 これは高瀬舟を通す運河の如きものであり、県下には浅口郡船穂から玉島へ出る所と吉井川水運を岡山の町に結びつけるものとある。
 昔は高梁川は船穂を通る高梁西川と現在の酒津土手の東を流れる東川とに下流が分かれていてこの高瀬通しは、船穂町水江かきわ谷にある一の口水門から船穂の山すそを廻って、玉島港にいたるもの、延長9キロメートル、幅5−7メートルの運河である。これは舟も通すが用水路でもある。
 高瀬舟が乙島沖に廻って行かなくてもすむように直結したものである。
 江戸時代初期には船穂の地先は海であり、高瀬舟は高梁川を下って玉島に出た。
しかし寛永(三代将軍家光頃)の初年以来船穂地先は次第に干拓されて、そのため高梁川は乙島と亀島との間を流れるようになった。
 それで舟は海上を廻って玉島港に行かねばならなくなった。そのために新田に必ずいる用水路を
舟が通えるようにした。
 この設備たるや、パナマ運河の如きもので、高梁の松山藩主水谷勝隆が家臣の大森元直に命じて延宝年間に完成させたもので今から約315年前のことである。パナマ運河は今から75年前に作ったので、約240年この方が古い。
 その運河の作り方はこう門による仕掛けで、下り舟を通す時は二の水門を閉じ、それより350メートル上にあった一の水門を開き、下り舟20−30隻とともに高梁川の水を迎え入れ、水深が2−3メートルになると一の水門を閉じて二の水門を開き、流れ出る水に乗せて舟を引っ張り玉島港に至る方法である。
 この小さなパナマ運河は小なりといえども人工の水路のため費用のかかった事ゆえ、有料運河で、水門通し札を持たせて通行させ、この札は水江村の庄屋が扱った。
 画期的なこの高瀬通しも現在は高瀬舟が通らないので、ただの灌漑用となっているのみである。



7.小田川の高瀬舟
「小田川高瀬舟の便は玉島、児島、四国地方に於ける運輸の利器にして、米、麦、酒、薪などの輸出、食塩、肥料の輸入をしていた。




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