高梁川水害史



高梁市の水害史

1655年(明暦元年) 大洪水のため高梁町では一丈五尺(四・五メートル)まで満水した。 1721年(享保六年) 大洪水のため高梁町では一丈(三メートル)ばかり水位が上がり、家中屋敷、町家が大破損した。 1836年(天保七年) 五月頃から雨が続き、七・八月になって洪水をおこし十月になっても晴れる日がすくなくて、寒さが厳しくなり、人々は皆綿入れを用いた。 1850年(嘉永三年) 六月三日中井町西方に集中豪雨があって川が氾濫し、流失家屋二一軒を数え、沿岸の損害は極めて大きかった。これに対して松山藩主は救助米を出した。



総社市井尻野の洪水史

 江戸時代は湛井より清音村中島に至る川はほぼ現在の川筋をとっているが、その東側に古川筋と記された川筋があり、中島で合流していることがわかる。当時の堤防の一部が清音村柿木の西に道路となって残っている。現在の堤防とは比較にならない程弱小なもので、当時の住民の洪水や災害には大変に苦闘されたことが想像できる。
 特に高梁川は川が若く水勢が強いため、川筋が安定した後も洪水による堤防が絶えず沿岸諸村に大きな被害をもたらす事が少なくなかった。
 この記録として、井尻野の隣村である常磐村史の水害史には、明治に入ってからも高梁川は数年おきに氾濫を繰り返した。特に明治26年10月の暴風雨洪水は県下一円の大災害を来し、その上前年の25年7月の災害に倍加された結果その被害は甚大であった。
 被害として死者 423人。負傷者 991人。流失家屋3,342戸等未會有の記録が残っている。 その内、軒か三大河川の内、高梁川水系の被害が最大のようでありました。




真備町水害史

 延享年間(1770年頃)より大正時代までの高梁川の洪水を拾ってみると18回を数える。これがいつも川辺あたりより逆流して湖水となる。 川辺村民は古くは今の清音に住んでいた人たちが、そこはたびたび洪水となるので川辺に移り住んだという。しかるにその川辺も後には大変なことになった。 岡田の殿様は江戸初期、川辺に居たが、このために神楽土手を築いて川辺の民家を護った。
 明治13年7月1日、高梁川右岸堤防、現大字市川部落付近が大決潰。高梁川の水かさ2丈6尺に達したという。次に明治19年、高梁川右岸堤防、市川部落が決壊し、市川西部の砂山は当時の被害のあとをのこしている。
 明治26年には未だかってない大洪水。秋祭りをしていた川辺には384戸あったのが、一瞬にして19戸残して押し流されてしまった。高梁川右岸堤防秦地内が決壊、読いて下流の富原が決壊、下原の下流もまた、小田川右岸、左岸みな決壊した。高梁川の水位14メートルという。
 この時の出水は大変なもので川辺の堤防の天より、1・5メートルぐらい高かったという。もちろん現在より堤防は低かった。
屋根の上で流れつつ救いを求めるもの、老若男女の泣き声、さながらこの世の地獄であって、家は遠く瀬戸内の塩飽島や、丸亀、多度津まで行って軍艦に救われたり悲しい物語は数限りがない
後に高く堤防を築き、排水機などにより水害を防ぐ方策ができていて、ただ古人の苦労は話の種となるのみで、高梁川大改修と付帯事業との恩も知る人ぞ知るのみ。思いかえせば明治には三大水害があった。



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