上原井領用水


真備町辻田 国司神社





 伝説によれば岡田村の伊東家[岡田藩主]の用水口を秦村に求めて、荒平山麓石畳神社の下に水路を開こうとしたものが現に長池と称し、昔は伊東堀といったという。
 しかしこの工事が完成の見込み立たず苦心していた折から備前領の富原の庄屋小原七郎左衛門が伊東家に内通し、夜の間に上原井手なるものを造ったので伊東堀は一部分の工事にみで終わったという。
 小原の件は廷宝四年(1676)のことでこれより上原用水取入口を拡張して上原用水の基礎ができた。
これより後人は益を受けるに至った。
    小原七郎左衛門
  本姓藤原氏、下道郡富原村上原(神在)の人で庄屋であった。彼は義侠心に富み、農民の窮 を見て、遂に上原用水取入口の拡張を約し、旧来の溝を改め大いに岡田領のために便を与えた。
 備前藩主これを知り、自領の地を提供して他領の利益を計ったとして彼を罪にし、延宝五年(16 77)三月二日死罪に処した。
 岡田の領民はその死を悼み国司神社(大字辻田字森)にその霊を合祀した。その首代として永代 玄米一俵をその子孫に寄贈してその恩徳に報いた。
 現在上原井領用水区域たる箭田・薗・川辺・岡田・神在の五か村にわたる田園は全く彼の功によ り長く灌漑の益を受けているのである。



上原井領用水は、天正年間、岡田藩主によって改修されてから今日まで三八〇余年の星霜をかさね、この間に設けられた樋門や分水路は甚だ複雑多岐となって、不合理な水利慣行を生じ、更に水路は回折し、老朽化して、用水の適正な送水が困難となった。
 このため干ばつ時には、水争いが絶えず、その被害が大きくなったので、県耕地課においてその対策を協議、調査、研究した結果、用水路の根本的改修を決定し、県営事業として昭和二八年に着工、昭和三五年度において全工事の完成をみたものである。



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